暇と退屈の倫理学|東大・京大で最も読まれた本

雑談コラム

こんにちは。

今回は「暇と退屈の倫理学」(國分功一朗著)という著書について,紹介します。

この本はかなり読みやすい一方で,学術的な内容もかなり含まれていますので,「ブログで紹介していいものか…」とかなり悩んだのですが,思い切って書いてみることとしました。

なぜなら,これまで数々の本を読んできましたが,この本は私にとって間違いなく「No.1書籍」だからです(2024年11月執筆時点)。

これまでの自分の価値観を大きく変えたとともに,自分が抱き続けてきた色々な悩みにも,かなりの部分答えてくれた本です。(このブログの”暇つぶし”というコンセプトを思いつくきっかけになったのもこの本です)

そして何より,書かれている内容がまーとにかく面白い。

とはいえ,先ほども述べたように,この本は哲学,心理学等の学術的な内容が含まれており,全くの素人である自分がこの本の内容を紹介すると,間違っていたり誤解を生んでしまう可能性が高い。

そのため記事にするか非常に悩んだのですが,このブログは,あくまで本書の魅力を紹介することを目的としており,著者の意向とは無関係であることを断った上で書くことにしました。

本書は私のような素人にも非常に理解しやすく読みやすい文章で書かれております。

論理も一つずつ一つずつ非常に丁寧に解きほぐしながら進めてくれているので,堅苦しい文章が苦手な人でも読みやすいと思います(途中,自分の理解力不足で,理解するのに時間がかかった個所もありますが…)

気になった方はぜひとも実際に本書を手に取って読んでみて下さい(これが一番大事。そのことは本書にも書かれています)。

さて,前置きが少し長くなりましたが,本題に戻ります。

本書の内容を全てあますことなく紹介したい気持ちは山々ですが,如何せん内容がゴッツイ濃いんで,ほんの一部をかいつまんで紹介したいと思います。

この本は,「暇とは何か?」と「退屈とは何か?」について,徹底的に考察し尽くした本です。

「ここまで突き詰めるか!!」というくらい徹底的に考え抜かれています。

「自分だったらここで思考を止めてたなぁ。分かった気になるだけだったろうなぁ」と何度も思わされました。

考察の次元・深さが違うというか,アカデミアの世界で研究を続けられるような人は,ここまでの思考力を持ち合わせているのだなぁと改めて感じさせられました。

例えば,
「長い歴史の中で,それまで遊牧民のような遊動生活をしていた人類が定住生活を始めたのは,農耕をするようになったからだ」

と説明された時,私だったら,

「なるほど。つまり”農耕という技術を習得したから”定住するようになったんだ。」

と真に受けて,そこで思考を止めてしまいます。

これに対し本書では,「本当にそうだろうか?」と疑問を投げかけます。

「それまで長いこと遊動生活をしていたのは,定住する必要が無かったからであって,むしろ,何らかの理由で”定住せざるを得ない状況に追い込まれたから”定住するようになったと考えることはできないだろうか?そう考えることの方がむしろ自然なのではないだろうか?」と更に問いを深めるのです。

(つまり,”農耕技術を習得したから”定住したのではなく,”何らかの原因で定住せざるを得ない状況になってしまったから,生きるために農耕技術を習得する必要があった”という仮説です。「農耕→定住」ではなく,「定住→農耕」という順)

定住するとなると,排泄物を処理しないといけなかったり,次第にその土地の資源は枯れていってしまうため,食糧を保存したり作ったり(つまりは農耕)が必要になる。

しかも農耕というのは長い年月かけて作物を育てる高度な技術のため,変化を嫌う人間が,それまでの数百万年にも及んで慣れ親しんでいた遊動生活を投げ出してまでわざわざするだろうか?と。

では、なぜ定住せざるを得なくなったのか?…..その答えは本書に書いてあります。

言われてみれば「たしかに」と感じるこういった”素朴な疑問”を無視せず,”思考する・考察する”ってこういうことなんやと思わされるところが多々あります。むしろ終始そんな感じです。

そして,この本で書かれている様々な考察は,私たち現代人が抱える多くの悩みに関係しています。(だからこそ本書を強くオススメしたい…!)

仕事が嫌,学校が嫌,人間関係が嫌,自分が嫌…

多くの人が何かしらの悩みを抱えていると思いますが,これらの悩みについても,本書は解決の糸口となるヒントを与えてくれるはずです。

今日は,そんな本書「暇と退屈の倫理学」の中から,個人的に面白いと感じた内容を一部紹介しようと思います。

パスカルの言う「もっともおろかなもの」(p.42~)

個人的に面白いと感じたのは,「人間の不幸の原因(p.42~)」から始まる”欲望の対象”と”欲望の原因”,そして”もっともおろかなもの”についての話です。

パスカルによると,私たち人間は「欲望の対象」と「欲望の原因」をはき違えることがあると言います。

本書では「ウサギ狩りに行く人」や「ギャンブルに興じる人」が例に挙げられます。

ウサギ狩りに行く人やギャンブルに興じる人は本当は何を求めているのでしょうか?

まず最初に思い付くのは,ウサギ狩りに行く人は”ウサギ”が欲しくて,ギャンブルに興じる人は”お金”が欲しいのだということです。

つまり,彼らの欲望の原因は「ウサギが欲しい」,「お金が欲しい」というのであって,その対象が”ウサギ”と”お金”というシンプルな解釈です。

そんなの当然だろうと思うかもしれません。

では,彼らにウサギやお金を与えたら,彼らはウサギ狩りやギャンブルをやめるのでしょうか?

ギャンブルに行こうとしている人に対して,「お金が欲しいなら,お金あげるよ」とお金を渡す。

本当に欲望の対象が”お金”なのだとしたら,ギャンブルに行くのをやめるかもしれませんが,おそらく彼らは,それでもギャンブルに行くでしょう。(ウサギの例も然り)

では,彼らの本当の欲望の対象は何なのでしょうか?

本書ではかなり詳細かつ丁寧に説明されていますが,そこをすっ飛ばして結論を言うと,彼らが本当に求めているもの,それは「気晴らし」です。

パスカルの主張はこうです。

私たち人間は,何もせずに部屋でじっとしていればいいものを”わざわざ”社交の場に出てストレスを溜め,賭け事をしてお金を失う。

なぜか?

それは,私たち人間が「何もしないでいること(=退屈すること)に耐えられないから」というのです。

実はこの「退屈すること」の苦しみはどんな苦しみにも勝るもので,そこから逃れるためだったら人間は何だってするというのです(たとえそれが不幸を招くとしても)。

したがって私たちは,この「何もしないでじっとしている退屈な状況」から逃れるために「気晴らし」を求める。

これを踏まえると,先ほどのウサギ狩りに行く人やギャンブルに行く人の欲望の原因と欲望の対象が本当は何なのかが見えてきます。

たしかに,彼らの欲望は”ウサギやお金”に向いている(=欲望の”対象”ではある)が,欲望の”原因”ではない。

つまり,彼らにとって欲望の原因は”ウサギやお金”ではなく”退屈”であって,本当の欲望の対象は”ウサギやお金”ではなく,実際は”気晴らし”なのだということです。

そして人間というのは,自らの欲望の原因が”部屋でじっとしていられないこと(退屈に耐えられないこと)”だというのに,”ウサギやお金”だとはき違え,欲望の対象(=ウサギやお金)を求めたその先に幸福が待っていると信じ込む。

欲望の原因と対象をはき違えていることに気づきもせず,わざわざ不幸を招いているのだから、人間はおろかなものなのだというパスカルの鋭い指摘です。

そしてここからが本番です。ここからが更に鋭い。

このような欲望の原因と対象をはき違えるた例というのは私たちの身の回りにあふれているので,そんな人たちを見て,「君は欲望の原因と欲望の対象をはき違えているよ」と指摘できる場面が少なくありません。

そしてパスカルはこう言います。

”そんな風にして「欲望の原因」と「欲望の対象」の取り違えを指摘しているだけの君のような人こそ,もっともおろかな者だ。”(p.49より引用)

ここが最も痛烈なところなのですが,パスカルが言うには,そうやって他人が欲望の原因と対象をはき違えていることを誇らしげに指摘することに躍起になっている人,そんな人こそが「もっともおろかなもの」であると言うのです。

なぜなら,彼らがやっていること(欲望の原因と対象をはき違えていることを指摘すること)もまた,「気晴らし」だからです。

彼らはそうすることでもっと賢くなるためではなく,「そういった事実を知っていることを人に示すため」にしているのであって,自身も欲望の原因と対象をはき違えているのです。

そして彼らは欲望の原因と対象をはき違えることがあるという事実を知っていてもなお,自分ははき違えていないと思い込んでいるのだから「もっともおろかである」と言うのです。

環境問題などで「プラスチックを完全に廃止すべきだ」みたいな極端な主張をする人が実際はプラスチックを使っていて,本人はそのことに気付いていないといった話と似ていますね。

本書ではこの後,”気晴らし”と”熱中”の関係についての議論につながっていくのですが,ここでは割愛します。

かなりざっくりですが,本書の内容のごくごく一部を紹介しました。

ーー以下,完全に自分の見解ですーー

恥ずかしながら,本書を読んだ時,私は「もっともおろかなもの」であることに気づかされました。笑

世の中には,行動とその動機をすり替える人がいるかと思います。

「お前のためにやっているんだ」と言いつつも実は自分のためだとか。

建設的な質問しているように見せかけて,実は自分の賢さをアピールしたいだけとか。

そういう人たちを見て,私は心の中で「あの人って結局○○したいだけだよな…」とか批判めいたことを考えてしまう時がありました。

でもそれは,そうすることで自分が賢くなった気になっていたり,その人より自分が上だと思い込みたいだけだったりすることが少なくありません。

そしてそのような思考に至る根本の原因は,おそらく”自尊心の欠如”なのかなと自分なりに分析しています。

悲しい話ですが,自尊心がないから人を批判したりしていい気になり,自尊心を保とうとする。(それが自分を幸せにすることはなく,かえって不幸にしているだけとも気づかずに…)

こうして考えると,私たち人間が普段している行為のほとんどが”気晴らし”でしかないという気さえしてきます。

”人生は暇つぶし”なんて言葉を聞いたこともありますが,かなり的を射ているのかもしれませんね。

そして,こうしてブログ記事を書いている自分自身も,「こんな本を読んでいるんだZE☆」「こんな知識を知っているんだZE☆」と,ただ自慢したいだけなのかもしれません(もう「どうしたらええねん!!」と発狂したくなりそうですが。笑)。

まとめ

今日の記事では,「暇と退屈の倫理学(國分功一郎著)」の中から,私が面白いなーと感じた”ほんのごく一部”を紹介しました。本当にごく一部です。

他にも,「消費と浪費の違い」や「自由」についての議論など,ここでは紹介しきれないほどの面白い議論が展開されています。

本書の内容だけで記事を100記事以上書けそうな勢いですが,私のような素人の文章を読む時間があったら,実際に本書を読んでほしいと声を大にして言いたい。

本書でも後半に触れられていますが,「暇と退屈の倫理学」は結論だけを読んで理解できるものではありません(もちろん,この記事を読んだだけでは,1ミリも理解できません)

でも,人生の悩みを解決したくて色々と自己啓発本を読んできた私ですが,「暇と退屈の倫理学」の考え方は,多くの人が抱えるあらゆる悩みを解決できる可能性を秘めていると思っています。

そして,冒頭や本ブログの紹介ページでも触れていますが,このブログの”暇つぶし”というコンセプトも,本書がきっかけで思い付いたものです。

この記事を読んで,誰か一人でも本書を手に取ってくれたら,これほど嬉しいことはありません。

今後も(気が向いたら)本書についての記事を書こうと思うので,このブログが「暇と退屈の倫理学」との出会いのきっかけになることを祈っています。

最後まで読んで頂きありがとうございました。